
■ 「中国大返し」の本当のキモ
備中高松城の水攻めにあたっていた羽柴秀吉が、本能寺の変の第一報に接したのは天正10年(1582)6月3日の夜である。
明智光秀は2日の未明、本能寺に織田信長を襲い、直後に毛利方に密使を発していたが、これが秀吉軍に捕らえられたのである。
ここからの秀吉の動きは速かった。備中高松城主の清水宗高を切腹させれば包囲を解いて城兵を助ける、
との条件を毛利方に持ちかけて停戦を成立させ、6日には備前まで撤退。世にいう中国大返しの始まりである。
光秀が畿内制圧に動き出した8日、秀吉は居城の姫路城に着く。
3日後の11日、光秀が畿内諸将の支持を得られないことに焦りを募らせていた頃、
秀吉は大坂に入って摂津方面の織田方諸将を糾合にかかり、13日には山崎の合戦で光秀軍を破るのである。
秀吉の中国大返しについては、これまでも、万単位の軍勢をなぜ、これほどすばやく移動させられたのか、
兵士たちの食料をどう確保したのか、という問題が取りざたされてきた。しかし、軍勢の移動については、筆者は特段不思議だとは思わない。
なぜなら、秀吉軍は自軍の補給線を逆にたどっているだけだからだ。
まず、備前は秀吉に従っている宇喜多氏の領国で、備中戦線に対する秀吉軍の出撃拠点だ。
そうである以上、万一備中戦線が危機に陥った場合、備前まで退却することは最初から織り込み済みである。
次に、もともと近江の長浜を居城としていた秀吉は、播磨を平定し、中国方面軍司令官に任じられたことによって、姫路を居城としていた。
つまり、この時点で姫路は、備中戦線に対する後方支援基地なのである。当然、兵糧などの物資も備蓄されている。
であるならば、まず備前まで退却し、そこから腰兵糧(携行食糧)をもって姫路まで走れば腹を満たせる。
いったん兵を休ませ、姫路から腰兵糧をもって東に向かえば、2、3日で大坂に着く。
大坂は大都会だし懇意の商人などもいるから、兵糧の調達はどうにでもなる。こう考えるなら、軍勢の急速な移動そのものは不思議でも何でもない。
中国大返しの本当のキモは、秀吉の判断の速さに求めるべきだろう。
変事の第一報に接するや、ただちに戦線をペンディングさせ、軍を反転させる決断をためらわずに下し、実行に移したところが、秀吉の勝因なのである。
この秀吉の迅速な決断についても、不思議がる人が多い。6月3日夜の第一報の時点では、情報の真偽も信長の安否も確認できていないからだ。
毛利方への密書を謀略と疑うことなく撤退を決断できるものなのか?
いや、それをいうなら、このタイミングで光秀からの密使を捕まえた、という話そのものが出来すぎではないのか?
現状では、戦国史研究の第一人者のである先生方までもが、こうした点に疑問を呈し、
秀吉は光秀が謀叛することをあらかじめ知っていたのではないか、などと大まじめに論じている。
しかし、秀吉の迅速な判断と行動は、筆者にいわせれば不思議でも何でもない。
秀吉が置かれた「現場」の状況を「作戦」という観点から分析すれば、むしろ当然の判断とすらいえる。
どうも、研究室で史料や論文を読んでいる先生方は、戦場という現場で起きている事件を、「軍事」という観点から理解することが苦手のようだ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/8031121986b9be4fbd728e468a2aec7b70c2262f
★1が立った時間:2021/02/09(火) 12:20:46.14
※前スレ
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1612840846/
引用元: ・【歴史】実は不思議でも何でもなかった、秀吉の「中国大返し」 ★2 [ボラえもん★]
偉そうなこと言ってるけど誰だよこやつ
それにつきるw
「中国大返し」そのものは大したことないとしても
大返し途中で中川清秀高山右近の摂津勢と
明智盟友の細川筒井を手紙だけで信長は生きてると騙し味方にした一世一代の大博打が凄い
ここを見ないと>>1みたいなシッタカバカになるので注意
まあ、不思議なことではないが、
その「大返し」は、秀吉でなければ無理だったろうな。非常に大きな決断が要る。
あの、ローマ帝国で、シーザーが「サイは投げられた」と言ってルビコン川を渡り、本国ローマに攻め込んだことに匹敵するかも。
一節では、黒田長政が入れ知恵したと言われてるが。
>非常に大きな決断が要る
これもそうだよね。
「え? え? どうしよ、どうしよ。毛利と和睦しても裏切られるかもしれないし」
ってなるだろうし。
黒田長政 → 黒田官兵衛
>秀吉軍は自軍の補給線を逆にたどっているだけだからだ
それにしたって、数万を動かすのは大変だってばよ
信長●すの情報はそこそこ広がってるだろうし
それだけの人数が離脱もなく、山崎の地まで動いたってのは
すげーことだよ
実際関東攻略を担当してた滝川一益は軍が四分五裂しちゃったしな
まともな記事があって良かったわ。
前に現代ビジネスにトンチンカンな記事が出て何を馬鹿なと思ってたんだけど
一昨日にその馬鹿な記事を再掲載してやんの。
豊臣秀吉「本能寺の変を事前に知っていた」説は、やはり正しかった…!
科学の成果が、歴史を裏付けた
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/79090
>筆者は、実際の1日あたりの平均行軍距離は、前半3日間は約30km、後半5日間は約20kmだったと判断する。
>また、前半の姫路城に帰るまでに必要な物資は、ふだんから用意されていたと考える。
>そして姫路城において、6月9日からの後半の行軍に必要な物資が、総がかりで準備されたとみるべきであろう。
兵站的には敵地での包囲戦が一番大変なのにさ。
高松城を包囲してる秀吉軍は霞を食ってたとでも思ってるんだろうか?
後から来る信長さまのために用意してた備蓄だって説もあるし
前もって何らかの理由で準備しててもおかしくはないよな
光秀の裏切りを前から気づいてた説の証拠にはならんわな
秀吉「うきっ?予定通りだし」
> どうも、研究室で史料や論文を読んでいる先生方は、戦場という現場で起きている事件を、「軍事」という観点から理解することが苦手のようだ。
ここの部分なんというか…
話してはその通りだが、
当時は重い甲冑や武器を自分で持って抱えて背負って、
1日40キロ以上を徒歩で移動する事を
3日間続けて大阪、京都に帰ってくる、って、
馬に乗れない歩兵たちの根性が凄いんだよ
羽柴軍は甲冑とかは全部船で輸送してるぞ
兵士は基本形装備で走ってる
羽柴水軍ってあるからな
侵攻中は自分でスケジュール組めるからそんなことができただろうが、
中国おお返しの段階で大急ぎで京に帰るのに甲冑を着けずに道程を動けないだろ
集めた甲冑を船積みして大阪に運んで、
そこから歩兵たちに支給するとでも?
当時は歩兵たちの武装は基本的に自己負担だぞ
だから落武者狩りとか分捕りとか当たり前にあった
軽装備で羽柴軍が走ってたって資料が残ってるぞ
ちなみに同じ手をもっとうまく使ったのが賤ヶ岳の戦いで
大垣から大返し
羽柴軍が50kmを4時間で戻ってる
マラソンで42.195kmを2時間で走ってる現代人
舗装もしてない山道を50kmを4時間で甲冑付けてる思うか?
マラソン選手の倍の時間だと行っても一般人から見たら結構全力で走ってる
あれは中国大返しの経験からもっとうまく発展させてるのよ
謀反人の絶望の13日間をやらずに 何のための1年間だったのか。
>>4
変わらん。
織田に属した武将で 本能寺にかかわらなかった武将すべてが敵か中立になってたから
遅いか早いかだけの話。
娘婿の細川とその親は 頭まるめて喪に服す(と戦闘しない宣言
同じく娘婿の津田は 織田信孝にさくっと討たれてる。
安土から盗んだ金を朝廷に献金しても 京を護れ(戦火だすな)といわれただけ。
ホント
資料の少ないとこを
訳の分からん人物だして延々ダラダラやって
一応の資料ある部分を飛ばし飛ばし
んであまり描かれることのない本能寺後(光秀主役がなかったから当然だった)
ここを丁寧に光秀の信長への葛藤やライバル秀吉との戦いでの心情などを
描くのかと思ってた
NHkは●
これからも受信料は払わん
三日天下どころか45分未満だったな
そこだけ別で、いろんなパターンをやったら面白いなw
山崎の合戦までやらなかったら
意味無いよな
本能寺の後にことごとく加勢要請を断られ、孤立を深めたところに秀吉軍急接近の知らせが届く、あたりの展開がドラマ化したら一番面白そうなのにな
ほんこれ
脚本家が無能すぎ
企画したプロデューサーが無能すぎ。
そしてokだすnhkも無能
脚本家は 放送開始後も本全然かけてないっていってたとおもう。
ぶっちゃけ前半の年代全部要らんし、後半の年代も今回採用したっ話全部かっと ほかにつくりようがある
しかも、3年後も生きて馬に乗って走り回っているっていうなぞエンディング
光秀が天海になったというトンデモ歴史の方がまだマシ
「丹波で再起を目指して」つっても、その後光秀が再起した史実が無いわけでねえ
光秀が足利義昭を据えた
室町幕府が復活したんじゃないか?
体制整えた柴田勝家か徳川家康のどっちかが光秀討ってただろ
とりあえず柴田の勝ち
最終的には家康の勝ち
織田四天王はどれもパッとしねぇよ
秀吉は野戦は苦手やけど城攻めを得意としてんだよ
そもそも織田家のやり方が戦う前に敵陣営を調略で無茶苦茶にして
裏切らせてこちら陣営に引き入れた上で敵国に攻め込むやり方
孫子が言う戦う前に勝つってやり方をしてたのが信長で秀吉はそこから学んでる
秀吉も光秀も優秀だろう?
そうじゃあないと、織田軍が畿内、北陸、中部地方を征服することはできなかったと思う。
日本人はそんなことだからマッカーサー相手に補給を絶たれて餓●させられまくって負けたんやんけ
秀吉の戦い方は実はすげえ強いんだぞ
中国は応力だからね
先の先まで読んで動くのが将の基本や
侍に出せ。言われたら、すぐに出さないと斬られる。
そんなわけではなく、織田信長の本隊が来てもいいように、米も武器も購入、備蓄済みだったということ
秀吉の地方軍は、毛利よりも数で圧倒的に上ではないから、相手の計略や強襲で不利になる可能性があった
その時に備えていた分を使って大返しができたから、山崎の合戦では略奪の禁止を通知するぐらい余裕もあった
武田信玄は武田信虎の息子で武田家の人間。
羽柴秀吉は羽柴家の人間で織田家の相続とは何の関係もない単なる陪臣。
だから全く参考に成らないよ。
況して秀吉は天下人に成ったとも織田家の人間抹●してないのに。
ドヤってるとこすまんけど、おれ小学校で普通にそう教えられたよ
なぜ秀吉は船を使わなかったのかが謎
船使ってるぞ
兵士の武具を船で輸送して
人を身軽にして走らせてる
高松城に居た羽柴軍は3万人(宇喜多が1万)
石山城まで撤退して宇喜多軍1万人を残して(対毛利で)
羽柴軍2万人を姫路に戻してそこから山崎まで進軍
途中織田信孝、丹羽長秀、摂津衆2万が合流して羽柴軍4万VS明智軍1万2千になったけど
船が何隻いるんだよ
そんな大船団準備するより、足が付いてる奴は走らせた方が早いだろ
毛利が講話後に裏切って攻めてこないか、二日間ほど様子を見る必要があった。
水攻めの堤を切って、障害にして攻め混まれないようにはしてたけど
秀吉の軍
そんなに走ったら、山崎の戦いで疲れないのかね
切腹後 堤切って2日現地でみとどけ
姫路までひっしにで帰り 姫路で2日休憩(根回し。
山崎に 現地の見方を布陣させ 後方に布陣。
実は結構余裕。
逆に 光秀軍は 安土いったり 京都を南下したりけっこうきつい行軍してる
> 中国大返し
> 秀吉の軍
> そんなに走ったら、山崎の戦いで疲れないのかね
疲れていても数を集めれば、あとは山崎近辺の武将が靡いて、そいつらに戦わせればよい。秀吉本陣は戦わなくてよい
そう読んで当たった秀吉の勝ち
実際、山崎の合戦の前線は池田恒興とかの摂津衆、それと四国向けに準備してた信孝と丹羽長秀が
前線や第二列を担当してて、秀吉の軍勢は主に後詰め担当なんだよね
遊軍的摂津衆と、形成中の四国方面軍を考えると、秀吉軍は軍容を保ったまま帰るだけで、大義名分から
日に日に味方する軍は膨れるのが目に見えているし、討伐軍と叛乱軍じゃ兵の士気も大違いだし、
なんとかなる可能性が高かった
それを決断したことが秀吉の凄さ
魚津城を落として松倉城も陥落間近だった勝家は秀吉と似たような状況だったが、結局身動きが取れなかった
秀吉軍はウイスキーで一杯やってた
ぐらい余裕だったからな
波動の伝搬みたいなもので
何かの切っ掛けで夢中になり熱くなるが
冷めると何年も放ったらかしになるんだよな…(´-ω-`)
もし毛利の謀略なら、追撃食らう可能性があるんだぞ
高松城を水攻めした時の堤防を決壊させて沼地にしてるから毛利軍は追えないけどな
村上水軍も3分割して四国方面の村上水軍は秀吉側に付いてた
村上水軍が分裂してるから海軍で追えない
陸は街道全部水浸しで追えない山陰方面は南条家は羽柴に付いてる
十分追撃可能だろ?
水没地域なんて限定的で
いくらでも街道に出られるだろ
いや人だけなら確かに強引に追撃できるかもやけど
羽柴軍は素っ裸で走って東に移動
毛利軍が重装備で走って追いつけるか?
次に石山城(岡山城)には宇喜多軍1万人がいる
そこに街道が水浸しの沼で兵糧運ぶのが不可能な毛利軍が追撃して
石山で飢えるんだぞ
戦争って直接切り合うより兵站が重要
だから秀吉が高松城水攻めの堤防を壊して4km四方沼地ににしたのは凄い戦略的なんですよ
水害地の動画をイメージしたらなんとなく分かるかもです
荷車で兵糧運べない、村上水軍は秀吉の裏切り工作で動かせない
こんな状態で兵站無視して追撃すると全滅します
村上水軍で秀吉についたのは
三家のうちの一家だけだろ
秀吉についたとしても他の家が
毛利の兵站業務についているのを
襲ったりするかね
それほど織田家に忠誠つくすとは思えないが
秀吉軍の北側の部隊は動けないのに吉川元春が手を出せなかったのはなんでだろう
堤防切られて水で全滅するからかな?恐ろしい布陣だ
隆景にスルーしよう言われて反論できなくて、独断で追撃できなくても仕方ない
若い頃はバカにしてた隆元兄さんが●亡する一因(苦戦して援軍求めた)作ったって自責
もあってか後半生は不調なんだよね
有力武将や大名相手に勝ててない=功績少ない
> 大河の細川の動きがよく分からん。なんで明智から離れた?
所詮は老人の光秀では、この先、付いていっても寿命が来る
光秀には天下を取れない。
味方することは危険
いつか●してやろうと、いろいろ監視してたんだろww
どこに落ち延びるつもりだったんだろう
義昭がいた福山じゃね
「右府さまを打ちましたが、ハゲネズミの奴にやられちゃいましたわw」
秀吉が包囲してる勝竜寺からどうやって明智脱出出来たのか謎
秀吉は自分で光秀を●すのが嫌で
勝竜寺から逃げやすいように警備手薄なとこを作ってて
そこから落ち武者狩りをしている方向へ逃がし
土民に●させた
って所ジャパンでやってた
軍勢を移動させるのと、一気にスピード感をもって反転移動させるの
とでは全然違うと思うけどね。
根回しした形跡がなさすぎる
実際に現場で足軽兵を指揮実行したのが斎藤利三なんでやっぱり利三は臭いんだよね、四国問題も被害者は利三だし。
春日局は利三の娘だが家康からしたらそりゃねぇ…。
大河では「黒幕」は濃姫ということ?
駒
事前に謀反の勧誘なんかしたら速攻でバレるだけ
なぜこの時かと言えば光秀の悲願は足利義昭を盛り立てて室町幕府を再興する事だから
光秀が信長に接触した理由は義昭を立てて京に登り
幕府を再興する有力な豪族として期待してたけど義昭は追放されてしまった
義昭を預かっていた毛利が敗れれば完全にチャンスは潰える
出兵前が最後の機会と判断して無理ゲーに挑戦しただけ
どうなってたの?
筒井と細川で信孝軍を堺で足止め
羽柴と明智のタイマンになってただろうな
同時に挙兵ならまだしも、秀吉があの速度で帰ってくるなら大して変わらないよ
丹後も大和も動員兵力は大したことないし、出陣準備で数日要る
それよりも摂津衆が味方した方が、兵力的にも地理的にも違う展開があったと思うな
丹後の細川の兵力は1万、大和の筒井も動因兵力1万はあるぞ
明智軍1万3000人に+丹後細川、大和筒井が味方してたら兵力33000人
羽柴軍4万人と普通に戦えた
ちなみに若狭守護の武田家は明智方、近江の旧守護京極家も明智方で長浜城占領してる
大和で1万も動員できるんだ
むしろ大和はもっとやばいっしょ
羽柴秀長が秀吉から大和もらってるからそれなりに石高あるよ
秀長は兵持ってないでしょ
文官のイメージが高いな
九州征伐のときは
秀吉軍と秀長軍で東西2ルートを侵攻して
薩摩を目指したじゃないか?
落ち延びた噂で誰も明智に味方しなかった
誰かの黒こげ首を晒したらよかったのにな
秀吉が流したとされる「上様イキテル」説の方がリアリティがあったんだろうな
当時の人たちには
そうなりゃ山陰山陽は取られてただろうな
ちなみにザビエルはもっと酷いハゲ
光秀はハゲで
髷が結えなかったので
ツケ髷をしていたそうだ
今で言えば、カツラ
あの小さな髷が結えるかどうかが
当時のハゲかハゲじゃないかの分かれ目w
相撲取りにもそんな基準あったな
つけ髷わろた
フランシスコ・ザビエルはフサフサなんだが
遺体の頭皮には髪の毛が豊富にある
他にも事例はあるかな
ほんとうっかりさん
24時間テレビ以下
本能寺起こってなかった時の秀吉の処遇はどうなってたのか
信長の息子を養子にしてるから(当時実子なし)
悪くても家督譲って隠居
毛利攻めに失敗してたら光秀と交代させられてた可能性はあるが実際は勝利してたのですぐにどうこうはない
上洛途中で気が付くから和議やぶって再び毛利攻めw
到着した信長には「誘い出して攻撃するつもりでした」と言い訳
無理かな・・・
物凄い勢いで大返しした後にすぐvs光秀3万とバトルだぞ?
これがスゲーよ
明智軍って最大でも1万6000だろ?
信長の息子である信忠の軍勢を倒してからは織田軍勢を吸収して3万にはなってるよ
兵隊は将棋のコマじゃない
敵から吸収しただけではすぐに忠実な部下にはならないぞ
情勢が変わればあっという間に逃げ出すだけ
秀吉本隊が到着する前に光秀軍とは圧倒的差があったけどね
仮に疲れて戦闘力が落ちていたとしても光秀側からはわからない
目の前に大戦力が追加されたのを見たらみんな逃げ出したくなるのは必然
明智:15000 本能寺>安土>京>筒井と合流するため大和(無駄足)>京>山崎
羽柴:本体2万 備中で2日(先発隊は移動)>姫路で2日休養&兵糧・軍資金分配、織田陣営への根回しご
ゆったりと進軍
摂津・京周辺の織田の諸将が山崎に布陣およそ2万。
まぁ 明智が勝てるわけがない
ただの平民なのに関白になった時も最初は征イ大将軍になりたかったがダメで
それなら政治権力争いの隙ついて近衛の養子入りして関白に
とにかく秀吉はその時その時の最善手を打つ、ダメなら次善の手を打つ早さが凄まじい
間違えて秀吉陣に持ってった
ん?マジでこれなの?密使●だろ…
明智の動向知ってて大返しする準備してたよな
引田で仙石三好を破って細川筒井と連動して信孝丹羽を挟撃し摂津を領有できる
信長が明智光秀を冷遇する理由がわからん
わざわざ部下からの信頼をなくすとかありえない
本当なのかね?
やはり秀吉が最初から天下を取ると画策してたとしか思えない
秀吉「しってた」
成功したから
オレは今いる
絶好のタイミング
あと数十年も信長の天下だし
普通に世襲するだろう
次男はアレだが
長男、三男はボンクラでは無いから、信長が生きてたらそのまま織田幕府になってかもな
その次男が家光の世まで長生きしてた
蜀を滅ぼした英雄劉備の息子劉禅も長生きしたなw
才ある奴は●んで、ボンクラは長生きするw
とっくに家督は長男に譲っている。
実権は信長がもっていたけれども
余程嫌われてたんだろうなとは思う
嫌われていたんじゃなくて
信長を討ちもらしているんじゃないか?という疑いがあって
もしも信長が生きていたら、あの第六天魔王が大群率いて
逆襲しにくるという恐れがあるから光秀に味方できなかっただけじゃないかと思う
何度も何度も裏切られても生き残って相手倒してるからなあ
有力家臣には嫌われてた話はあるよ
むしろ周りが全部味方することを確約したから実行に踏み切ったのでは
ソリャシモの世話は士気に関わるはwwww
とうとうアニオタニートアニオタ無職でしこりだしたし
やはりニートは強いってことや、少なくともデルタフォースよりは…
地元もニート無職いっぱいやし
リチャードのホモセ相手いっぱいやな
大返し以降・・・
・毛利家に領地拡大を許す
・毛利家に官位を授ける
・毛利家をご大老に命ずる
・毛利一族と秀吉一族で婚姻関係を結びまくる
毛利家をやたら重要視するのな
なんか恩があるのか弱み握られてるのか
毛利ってか元就亡くなって一番発言力あったであろう小早川隆景が見逃してくれたんだから
そりゃ秀吉以外の誰でも優遇するやろ
実は岡山の宇喜多の方が秀吉にすげえ優遇されてる。
雑魚大名だったのが毛利と同格の五大老になってるからな
宇喜多直家の動きは
かなり秀吉を助けていたからな
宇喜多がまだ毛利側についている時でさえ
別所長治や荒木村重の謀反で毛利軍はそこまで進軍できずに
別所や荒木と連携して、織田軍に対抗できなかった裏にあるのは
毛利方であるはずの宇喜多直家の言動が毛利に足かせをつけていたおかげ
その頃から宇喜多家は秀吉のために働いていた
本当に崖っぷちの決断だったんだろうな
長宗我部に背後突かれる怖れがあったからじゃね?
お市が葬儀やって
それに対抗して葬儀したと聞いたような
もうその頃は織田家ボロボロ
一番近くにいて大軍を持ってたのにね
不思議なんだよなそこが
下手に手を出して自軍が標的に変わるのが怖かったんでしょ
まず大前提として信孝が総大将な訳だけど、従う兵の多くは兄貴の信雄から借りた兵士だったそうな
そんな訳で織田家の一大事な訳だしまずは主人の信雄の元に集まらないとってなったり、こんな所にいられるか!俺は逃げるぞって奴も出たりでバラバラになって戦どころじゃなくなった
津田君を裏切者とか思ってやっちゃう混乱ぶりなので、
いろいろ疑心暗鬼と、統率力不足だよな。
集結中だった上に結構な兵が一夜にして逃げたらしいよ
要は軍としての規律が機能してない雑軍
動けば霧散してしまう
それをまとめるだけの力やカリスマがなかったとも言えるが
信長が●んだら自分の立場は喪失すると思ったんじゃないかなあ
なら今持てる全てを利用してともかく最大の戦果を上げる事に尽力した
秀吉以外の幹部はあの瞬間にそこまで必●になる必要が無かった
姫路城にあったカネを全部使ったってとこも
人生すべてをあそこに賭けたって感じ
大博打に勝った感じだな。
でも、そこで全部使い果たした感じ。
結局、もっと大局を見てた家康には勝てなかった。
朝鮮に手を出したから法則が発動した可能性が高いな
あの時ガチで秀吉が台湾、フィリピン、インドネシアを占領してたらな
既に欧州が植民地にしてたし
フィリピンを占領してたスペイン兵とか500人やぞw
信長だったら
そこまで行けてた気がする
安土城天主の上層階は中国の賢人の画だったそうだから
明の征服は構想にあったろうし
それを秀吉に漏らしてたかもしれない
秀次切腹させていなければ家康は何もできていないよ。
家康がそこまで考えてたとは思えないな
秀次事件が起こらなければ自分が生きている間に天下取るのは無理だし豊臣政権のNo2で満足してたんじゃね?
本気で天下狙おうとしたのは秀次が●に、秀頼が育つ前に秀吉が●んでからだろう
織田家内乱には介入しなかったよな
上杉の方は、反乱や対北条・対徳川で動けないのは分かるが
毛利の方は、何で?
策士、策に溺れる。じゃないか。
もっと揉める。と思ったけど、揉めなかった。
まあ、自分の領地だけ守れれば良い。と思ってたかもしれんが。
勝手に攻められてたし。
条約を裏切らないか、秀吉がしばらく見張ってたからな
そこで秀吉は2日ほどロスしてる。
それさら後を追おうとしても、強力な宇喜多勢が岡山で待ち構えてるから難しい。
野心が足りないんだろ?
野心家なら足利義昭をかかえているんだから
この時とばかりに義昭を擁して、軍勢を京に上らせて
室町幕府の復興を大義名分にして
毛利が天下を差配していただろうな
丁度山崎の合戦の最中に秀吉軍の後ろから
足利家の御旗と毛利の旗が翻った軍勢が襲ってきたら
秀吉も一たまりも無かったな
とゲーム脳的な妄想ができるw
光秀に呼応すれば完全に一蓮托生
毛利からみて「光秀の天下」に賭ける理由が乏しい
光秀は信長に対する謀反人だけれど
毛利は足利幕府を復興する忠臣という立場に立てるだろ?
どっちが権威的に上か、どっちが正義か?となれば
織田家よりは足利家に忠誠を誓っている側だろ?
室町幕府の足利将軍家に権威も力も無いから
応仁の乱から無茶苦茶なんやけどな
毛利家だって安芸の守護は武田家で毛利元就がその武田を討って奪った地位
足利将軍家なんか何の意味も無いって毛利が知ってたんだろ
足利将軍家が任命した安芸武田家を潰して下克上してんだから
毛利家の祖先は大江家でどちらかといえば武士ってよりは貴族、公家寄りの家系と血
元就も幕府じゃなく天皇家に献金、産物献上してるし
毛利元就が謀神って呼ばれるのもなんとなく頷ける家系
トップがへたれ&信長時にかなり追い詰められて
単独で攻撃する余力があんまりなかった。
本能寺の変当時で、上杉、毛利はかなりやばかった。
商人や草使っての情報戦得意だったんだから本能寺の変の情報も
真っ先に手に入れるわ
安国寺恵瓊と小早川隆景を既に取り込んでいて
毛利とは和平結ぶって約束していただろ
大阪にいた津田信澄を打ち取ってる。
津田信澄は織田家序列5位 信長の弟で謀反人の信行(信勝)の子供で
近江大溝城主で、摂津大坂城代 光秀の娘婿。
全てが計画通りみたいな陰謀論は無理があるわな
信長の遺体が見つかったとか秀吉が毛利と和睦できなかったとか、
少しの違いで光秀が天下を取れた可能性もあるわけだ
秀吉を買っていた安国寺恵瓊が健在だったことが大きい
有って楽ちんな移動だったらしい
箱根駅伝みたいな雰囲気
1日40キロ以上を重い甲冑や武器を抱えて徒歩で移動してみろ
3日間ぶっ通しで
楽チンか?
武具を船で運んだのは
史実だぞ
マラソンより短いんだから案外ハードルは低かったんだね。
休息や集結にあてた日もあるから、移動してる日はもっと移動してる
6月7日には姫路までたどり着いたあたりが異常な速さだな
織田信長が紀州征伐に失敗してる
鉄砲の保有率がやばいのよ
ロンダルキアみたいな山がちのど田舎で
鉄砲多いとか、普通に攻めて落とすのは
まず無理だわな
光秀=千利休
細川藤孝が光秀の味方してくれたら歴史変わったかもしれないんだよな
ヘタレ毛利家よりもこっちが動かなかった方が意外だわ
なぜ戻ってこれたのか??あとは分かりますね?
丹羽さんも数に入れてあげて
大阪にいたし
滝川さんは外してもええやろ
信濃の豪族に帰還を邪魔してお願い
300円あげるからさ!
って書状送ればええだけやし
毛利はともかく長宗我部とは組めるだろ
ヘタレの上杉だって士気がガタ落ちの柴田を叩いて領土拡げるチャンスだし
突発的犯行だからろくに対策してなかっただろ
だからグダグダで10日天下で終わった
目の前には 単独で2万用意して 自分らと対等以上の戦いをする羽柴がいる。
その奥の光秀は謀反人だから 織田家からの人望はなく滅びるだけ。
大内と陶晴賢の謀反と それをチャンスに大きくなった毛利というのを経験してるんだから
謀反人につくわけがない。
今回 チャンスは秀吉につくだけしかない。
学問は拙速より巧遅を尊ぶからね。軍事(笑)と違って。
秀吉は本能寺の変を事前に知らされていて、毛利攻めの最中、舞台の半分ほどを密かに姫路に帰していた
毛利方は気づいていない
大返しでは相当な数が脱落したが、先に姫路に帰っていた兵は元気で、全体の7割くらいの兵が天王山に参戦できた
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